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えのきどいちろうの横浜スポーツウォッチング

vol.52「青春を忘れないように」

 

 

 今月は木田勇について書こうと思う。若い読者はご存知だろうか、後楽園球場を本拠地としていた頃の日本ハムファイターズの主戦級左腕だ。僕の学生時代の思い出のエース。凄かったのはデビューした1980年シーズンだ。最多勝、防御率1位、勝率1位、新人王とタイトルを総ナメにした。またチームが優勝しなかったにもかかわらずパリーグ最優秀選手(MVP)に選出された。パの歴史で最も派手なデビューを飾った「アメージンクルーキー」である。

 

 背番号は16。以来、16は僕には特別な数字となった。1980年は大学3年だ。キャンパス・ミニコミに書いた原稿が若者誌の編集者の目に止まり、商業誌デヒューを果たした年だ。あんまりアメージンクではないルーキーも木田勇と同じ年、キャリアをスタートさせたのだった。後楽園球場の定位置はライトスタンド、外野自由席。いつもミドリちゃんという、ガールズバンドでベースを弾いていた子と一緒だった。

 

 当時のパリーグ、そして日本ハムファイターズの状況は今とはまったく違う。「人気のセ、実力のパ」と言われていたけれど、つまりそれは人気がないという意味だった。観客動員数もメディアの扱いもセに大きく水をあけられ、こう、日陰者のような感じだ。ファイターズは「不人気球団」ということで有望新人からことごとく逃げられた。木田勇はそんなファイターズに飛び込んできた希望の星だった。

 

 木田勇獲得の決め手はクジ運に尽きる。横浜一商(現・横浜商科大学高校)→日本鋼管とキャリアを重ねた実力派サウスポーは「大洋ホエールズと相思相愛」と報じられていた。大洋・横浜DeNAファンが多いであろうこのWebサイトでこれを書くのは誠に心苦しいが、「不人気球団」のファイターズはツイていた。

 

 実は1978年のドラフトで木田は大洋、広島、阪急の3球団競合の末、広島の1位指名を受けている。が、これを蹴った。木田の希望は「在京セ」だった。ご両親の病気のため、家を離れられない事情があったのだ。 翌1979年のドラフトでは巨人、大洋、日ハムの3球団競合になった。日ハム以外は希望通りの「在京セ」だ。それなのに交渉指名権は「在京パ」のファイターズが獲得してしまう。後にファイターズはダルビッシュ有や中田翔獲得でクジ運の強さを発揮することになるが、史上、最もツイてたのは木田勇じゃなかったかなと僕は今でも考える。当時のチーム事情では望むべくもないスーパールーキーが鳴り物入りで入団したのだった。

 

 木田勇のピッチングはキレ主体だ。球種はストレート、カーブ、パームボールの3種類。150キロ超のストレートと消えるパームボールでバッタバッタと三振を取った。投球フォームは腕の振りが「後ろが小さく前が大きい」型だ。セリーグの投手なら今中慎二(中日)に似ている。といっても僕が見てたのはライトスタンドだから、ストレートの伸びやパームの落ち方がそんなにつぶさにわかるわけじゃない。まだパリーグのTV中継も稀だった。僕が外野席から見ていたのは投球リズムと三振を奪ったときの派手なガッツポーズ、それから打たれた瞬間、しゃがみ込んでヒザを抱えるような独特の癖だった。

 

 とにかく1980年シーズンの快刀乱麻が見られたのは最高の記憶だ。野球マンガのヒーローがいきなり現実世界に出現した感覚だ。ポイントはそのいきなり感だ。当時のパは大人の世界なのだった。山田久志、村田兆治、鈴木啓志、東尾修、山内新一と各球団、風格あるエースが揃っていた。打者もリー&レオン、張本勲、有藤通世、マニエル、佐々木恭介、加藤英司、福本豊、土井正博、門田博光と豪傑揃いだ。そんな和装のホステスさんとか演歌が似合いそうな大人っぽい世界にワカゾーが飛び込み、いきなり大活躍する。「下積みの苦労を乗り越えて」みたいなお涙頂戴じゃない。ルーキーイヤーにいきなりトップを獲るのだ。

 

 これは同じワカゾーであった僕には痛快だった。ガールズバンドのミドリちゃんも「カッコいい!」と言っていた。1980年は木田勇の試合を何度見たんだろう。22勝8敗4Sのたぶん半分は見ている気がする。だけど、あんなに活躍したシーズンなのにいちばん覚えているのは10月7日、後期優勝(当時のパは前・後期制)のかかった近鉄との最終戦なんだなぁ。

 

 勝てば後期優勝という大一番、初めてファイターズの試合で後楽園球場が満員になったのだ。先発がつかまった時点で、「親分」こと大沢啓二監督は躊躇なく木田をロングリリーフに立たせる。「木田と心中」の覚悟だ。シーズン終盤、木田は登板過多でバテバテだった。が、彼以上にいいピッチャーはいない。

 

 結果、近鉄打線にゴンゴン打たれる。最後は有田修三にホームランを打たれて、マウンドにしゃがみ込む。「アメージングルーキー」の輝ける1980年が終わった。僕とミドリちゃんはライトスタンドで涙を流した。ファイターズが優勝するのはエース格の高橋直樹と「優勝請負人」江夏豊のトレードを敢行して後、翌1981年のことだ。翌年、木田勇は10勝10敗とまずまずの成績を残すが、ルーキーイヤーの輝きは失せていた。スピードもキレも本調子からほど遠いものだった。

 

 その後は成績不振が続き、1986年、かつての「意中の球団」横浜大洋ホエールズに移籍、更に1990年、中日ドラゴンズに移籍し、その年かぎりで現役を退いた。ミドリちゃんはサラリーマンと結婚し、僕はスポーツ紙の片隅で木田勇のベタ記事を寂しく眺めた。例えてみるなら木田勇は一瞬の光芒を放って消えていった流星だ。夜空にひとすじきらめき、僕らファンの願いを一身で受け止めた。僕はハマスタでホエールズ時代の木田勇のことも見ている。青春を忘られないように僕は木田を忘れられなかった。

 

 ずっと後のこと、僕がラジオの仕事をしていたときに木田勇氏をゲストに呼ぶことになった。朝から緊張した。木田さんは引退してTVKの解説者をされていた。いや、お会いしてびっくりした。体型も変わらず、すんごいカッコいい。それ以来、ご縁をいただいて木田さんの家にお邪魔したり、「投手・木田、捕手・えのきど」で東京ドームで始球式を務めたりした。僕は(始球式の練習で)木田勇とブルペンに入ったことがあるのだ。

 

えのきど木田-01

 

PS.本稿執筆の2016年9月22日現在、木田勇氏の後輩たち、北海道日本ハムファイターズは「天王山決戦」を連勝し、2位ソフトバンクに2ゲーム差をつけ首位に立っている。また横浜DeNAベイスターズは初のCS進出を決めた。素晴らしいことだ。

えのきどいちろう プロフィール

コラムニスト

1959年8月13日生まれ
中央大学在学中にコラムニストとしての活動を開始。以来、多くの著書を発表。ラジオ・テレビでも活躍。

Book
「サッカー茶柱観測所」「F党宣言!俺たちの北海道日本ハムファイターズ」ほか

Magazine/Newspaper
「がんばれファイターズ」(北海道新聞)/「新潟レッツゴー!」(新潟日報)ほか

Radio/TV
「くにまるジャパン」(文化放送)/「土曜ワイドラジオTOKYO」(TBSラジオ)ほか

Web
アルビレックス新潟オフィシャルホームページ
「アルビレックス散歩道」

Web
ベースボールチャンネル
「えのきどいちろうのファイターズチャンネル」

※タイトル・本文に記載の人名・団体名は、掲載当時のものであり、閲覧時と異なる場合があります。

 
 
                           
 
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