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元オリンピック陸上選手苅部俊二のダッシュ

vol.106「箱根駅伝」

 今年も1月2日、3日の2日間にわたって、東京―箱根間で開催された第95回東京箱根間往復大学駅伝競走、通称「箱根駅伝」に行ってきました。

 今年は波乱の幕開けでした。スタートしてすぐに、大東文化大学の新井康平選手(4年)が転倒してしまったのです。1区は選手がまだ集団ですから、前の選手と接触してしまったようです。新井選手は左足首ねん挫で足を引きずりながらも、その後約20キロを走り切り、2区にタスキをつなぎました。

 足を引きずってのタスキ渡しは美談ともとれるのですが、一方でなぜ止めないのか、あの状態で20キロも走らせるのはおかしいのでは、といった疑問も残ってしまいます。大東文化大学の監督は声を掛けましたが、選手はやめるとは言わなかったのでしょう。

 選手はどうしても、2区にタスキをつなぎたいのです。昨年、全日本実業団女子駅伝でも転倒し、骨折しながらも四つん這いになって、タスキをつないだ選手がいましたよね。選手は仲間やスタッフ、家族や応援してくれる方たち、支援者など多くの想いを背負ってタスキをつないでいきます。そのタスキの重みは計り知れません。

 監督は難しい判断に迫られます。2002年第78回大会で本学、法政大学も2区エース徳本一善選手(現駿河台大駅伝監督)が序盤で脚を痛めてしまいました。そのとき、成田道彦駅伝監督(現陸上競技部副部長)は体を張って徳本選手を止めました。

 徳本選手は何度か成田駅伝監督の制止を振り切り、なんとしてでも前に進もうとしました。本人にとってつらい状況ですが、成田駅伝監督の判断は正しかったと思います。

 この時は、脚を痛めながら20キロも走れる状態ではなく、徳本選手の選手生命を奪いかねない状況でした。徳本選手は、それでもタスキをつなぎたかったのでしょう。スタートから28.6キロ地点での棄権は、今でも箱根駅伝史上最短棄権記録です。

 さて、今年の箱根駅伝ですが、東海大学が初優勝を果たし、青山学院大学の5連覇を阻止しました。

 東海大学は前評判もよく、数年前からいつ優勝してもおかしくないといわれていました。東海大学は、地元神奈川にキャンパスのある大学です。横浜市立中山中学校出身で、昨年の日本選手権1500mを制した館澤亨次選手も3区で区間2位と、東海大学の総合優勝に大きく貢献しました。

 法政大学は往路5位、復路6位で総合6位となり、3年連続でシード権を獲得しました。本当は総合5位が目標でしたが、目標にはあと一歩届きませんでした。

 しかし、選手たちはよく走ってくれました。上位5校はホントに強かった。もう少し上位を慌てさせられるかと思っていたのですが、力の差を見せつけられてしまいました。まだまだこれからのチームです。来年こそは!

 6日には、NHKで大河ドラマ「いだてん」が始まりました。「日本マラソンの父」と呼ばれる金栗四三さんの話です。箱根駅伝ファンなら誰もが知っているはずの偉大な方です。

 2011年のコラムVol.10にも書きましたが、箱根駅伝を提案した1人で、1920年2月13日、14日に開催された第1回箱根駅伝のスタートの号砲を担った方です。箱根駅伝には金栗四三杯が設けられていて、その年の箱根駅伝のMVPが選出されます。今年は東海大学8区の小松陽平選手が選ばれました。

 金栗四三さんは、日本人初のオリンピック選手で、1912年ストックホルム・オリンピックのマラソンに出場しています。結果はなんと行方不明です。スウェーデンでは消えた日本人選手として語り継がれていたようですが、もちろんちゃんと帰国しています。

 その後、金栗さんは、1967年ストックホルム・オリンピック開催55周年記念の式典に招待され、式典中にゴールテープが張られ、ゴールを迎えられることになりました。記録は54年8か月6日5時間32分20秒3で、「これでやっとストックホルム・オリンピックが閉会しました」とアナウンスされました。このとき金栗さんは「長い道のりでした。この間に孫が5人出来ました」とコメントしています。スウェーデンのオリンピック委員会も、金栗さんも素敵ですね。

 ネタバレしてしまうかもしれませんが、上野から鴻巣に向かう電車の中で、東京高等師範学校(現筑波大学)出身の金栗さん、明治大学の沢田英一さん、パリ・オリンピック十種競技に出場した東京高等師範学校教授の野口源三郎さんが駅伝の話で大いに盛り上がったとのことです。

 アメリカ横断駅伝を開催しようとしたこと、そしてその予選会として箱根駅伝を作ったことなど、これからドラマで放映されると思うと、楽しみでしょうがありません。

 短距離選手として、初めてオリンピックに出場した三島弥彦さんもいますし、陸上界では名の知れた名選手が、続々と出てくるようです。当時は船でオリンピックに行っていましたから、選手は船の甲板でトレーニングしていました。

 そんな話も出てくるのだろうなと、毎回楽しみにしたいと思います。当時は本当に大変だったのだと思います。彼らがいるから私たちがあるのだと思います。皆さんも興味がありましたら、ぜひご覧になってください。

苅部俊二 プロフィール

1969年5月8日生まれ、横浜市南区出身。

元オリンピック陸上競技選手。横浜市立南高等学校から法政大学経済学部、富士通、筑波大学大学院で競技生活を送る。

現在は法政大学スポーツ健康学部教授 コーチ学(スポーツ心理学) 同大学陸上競技部監督 法政アスリート倶楽部代表 日本陸上競技連盟強化委員会ディレクター兼オリンピック強化コーチ(ハードル)。

2007年から日本陸上競技連盟強化委員会の男子短距離部長を務め、世界選手権(2007大阪、2009ベルリン、2011大邱、2015北京、2019ドーハ)、オリンピック(2008北京、2012ロンドン)に帯同。

また、2014年には日本陸上競技連盟の男子短距離部長へ復帰し2016リオデジャネイロオリンピックに帯同し、日本短距離男子チームの責任者として同行した。

1990年代を代表する陸上競技者として活躍。1996年のアトランタと2000年のシドニーオリンピックに出場、世界室内陸上競技選手権大会400mで銅メダルを獲得するなどの活躍を見せた。元400mハードル日本記録保持者。

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