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元オリンピック陸上選手苅部俊二のダッシュ

vol.22「駅伝シーズンです」

 年末から正月にかけて陸上競技界は駅伝シーズンです。昨年12月18日に実業団女子駅伝(宮城)、全日本中学駅伝(山口)、24日には全国高校駅伝(京都)、年が明けて1月1日はニューイヤー駅伝(実業団男子)、2日、3日は箱根駅伝、15日に都道府県対抗女子駅伝(京都)と、大きな大会が連続しています。1月22日には都道府県対抗男子駅伝(広島)が予定されています。
 日本の正月のスポーツというと駅伝というイメージがありますよね。サッカー天皇杯やラグビーもありますが、正月3日間ずっとテレビでやっているような気がします。
 私はこの中では全国高校駅伝と箱根駅伝に行ってきました。昨年も書きましたが、箱根駅伝は横浜を縦断するのでなじみの深い方も多いのではないでしょうか。


全国高校駅伝大会

 今年の全国高校駅伝は、女子の部で鶴見区の白鳳女子高等学校が出場し、見事6位入賞を果たしました。神奈川県女子代表としては初入賞の快挙です。白鳳女子高等学校コーチの出水田有紀さん(旧姓田村さん)は、私が高校生の時、誰しもが憧れる有名長距離選手でした。今は、娘さんが選手として走っています。本当におめでとうございます。

 さて、箱根駅伝では、昨年のハマスポで「必ずチームとして箱根路に戻ってきます」などと書いていましたが、実は今年も予選会次点(10位)となり、またもや本戦出場を逃してしまいました。ですから、今年も学連選抜での参加です。私の大学は復路の6区と10区を走りました。さすがに箱根には行けなかったので、昨年に引き続き10区中継所の鶴見市場に行ってきました。


10区中継所の鶴見市場。昨年と同じでものすごい観衆です。この中を大学として走ってほしかった…。


10区中継所。今年も昨年と同じように地元自治体の方々がテント、ジェットヒーターを用意してくださいました。写真を昨年とほぼ同じ所で撮影してみました。交通整理などを含め、みなさんボランティアです。本当にありがたいです。

 箱根駅伝は関東学連所属の大学19校と、本戦に出場できなかった大学の選抜チーム(学連選抜)の計20チームで争われます。今年は山の神擁する東洋大学の圧勝でした。学連選抜は17位に沈みました。今年の学連選抜は、過去最強チームと言われ、各個人の持つ記録でみると上位に入ってもおかしくありませんでしたが、結果は惨敗でした。決して手を抜いているわけではありません。シード権の10位に入れば来年の予選会での枠が1校増えることとなるので、来年出場権獲得を有利にするためシード権獲得は学連選抜チームにとって必須事項なのです。持ち記録だけが良ければ勝てるというわけではないのが駅伝です。寄せ集めで作った選抜チームはチームワークでは他大学にはかないません。モチベーションは無理やり上げています。立場上余り書けませんが、実際に選抜チームに入る大学は大変なのです。各大学によってやり方も違えば思惑も違います。意思の統一はなかなか難しいのです。学連選抜によって長距離競技の普及、レベルの向上、人数を集められない大学にチャンスを与えるなど趣旨には賛同しますが、現実は厳しいです。あまり書くと叱られるのでこの辺で。

 「駅伝」という言葉は海外でも「EKIDEN」として通用するのをご存知ですか?この「駅伝」という言葉、大化の改新の翌年、646年(大化2年)1月1日に、新しい政治の方針を示した4カ条からなる「大化の改新の詔(みことのり)」の「其のニに曰く、初めて京師(けいし)を修め、畿内(きない)・国司(こくし)・郡司(ぐんじ)・関塞(せきそこ)・斥候(せっこう)・防人(さきもり)・駅馬(えきば)・伝馬(てんま)を置き、及び鈴契(すずしるし)を造り、山河(さんが)を定めよ(日本書紀)」という条文のなかの「駅馬・伝馬」が起源であると言われています。この駅馬伝馬制度は、当時の情報伝達に大変重要な制度でした。「駅伝」という言葉の語源はかなり古いのです。

 競技としての駅伝は、1917年(大正6年)4月27日に開催された「東海道53次駅伝競走」が最初といわれています。この駅伝は京都三条大橋から東京上野不忍池に向かって東西対抗(関東軍・関西軍)2チームで争われました。1チームは23名、全長は514Kmにも及び、延べ3日間にわたる過酷なレースでした。当時の新聞には、浜名湖を選手が渡し船を使って渡ったことや、アキレス腱を断裂してしまった選手が出たため、次の走者が2区間走ったこと、前の走者が走行不能となり、次の走者が前の区間を走って戻って襷(たすき)を受け取ったことなど、今では考えられないような珍事が掲載されています。1日目、2日目とも午前1時過ぎまで走っています。勝ったのは関東軍で41時間44分、関西軍は43時間08分でした。大観衆の中、勝利した関東軍のアンカーでゴールしたのが金栗四三で、この金栗四三が箱根駅伝の開催を提案したのです。
3年後の1920年(大正9年)2月14日に第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が金栗四三の号砲のもと開催されます。箱根駅伝は今年で88回を数えますから歴史と伝統のある大会なのです。

 駅伝は、自分の走りをきっちりやって次の選手に引き継いでいきます。そしてまた自分の走りをこなし、次の選手へといった形をとります。この引き継ぎ制度は、浮世絵職人の下絵師(したえし)や彫師(ほりし)、摺師(すりし)の分業制や漆器職人の木地師(きじし)や塗師(ぬし)が分業するといった日本の伝統工芸に似た職人気質によく似ています。駅伝はこうした伝統的な文化を連想させる日本人の気質にあった競技であるために人気があるのではないかと私は思います。さらに様々なドラマがあり、この駅伝に多くの人々が感情移入するのではないでしょうか。

 とにかく、箱根駅伝に私の大学は2年間チームとして出場していません。さびしい正月を2年連続で迎えてしまいました。

 今年も書きます。「来年は必ず箱根路にチームとして戻ってきます!」

苅部俊二 プロフィール

1969年5月8日生まれ、横浜市南区出身。

元オリンピック陸上競技選手。横浜市立南高等学校から法政大学経済学部、富士通、筑波大学大学院で競技生活を送る。

現在は法政大学スポーツ健康学部教授 コーチ学(スポーツ心理学) 同大学陸上競技部監督 法政アスリート倶楽部代表 日本陸上競技連盟強化委員会ディレクター兼オリンピック強化コーチ(ハードル)。

2007年から日本陸上競技連盟強化委員会の男子短距離部長を務め、世界選手権(2007大阪、2009ベルリン、2011大邱、2015北京、2019ドーハ)、オリンピック(2008北京、2012ロンドン)に帯同。

また、2014年には日本陸上競技連盟の男子短距離部長へ復帰し2016リオデジャネイロオリンピックに帯同し、日本短距離男子チームの責任者として同行した。

1990年代を代表する陸上競技者として活躍。1996年のアトランタと2000年のシドニーオリンピックに出場、世界室内陸上競技選手権大会400mで銅メダルを獲得するなどの活躍を見せた。元400mハードル日本記録保持者。

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