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SPORTSよこはまVol.31:特集(2/4)

バレーボールと横浜 I n t e r v i e w モントリオール五輪金メダリスト白井貴子さん インタビュー

アジアスポーツフェスタで参加者をリードする白井貴子さん
アジアスポーツフェスタで参加者を
リードする白井貴子さん

モントリオール五輪で金メダルを獲得した白井貴子さんは引退後、当時のメンバーや取材記者とともにバレーボール・モントリオール会を結成し、子どもの体力向上やバレーボールの普及に活動されています。横浜でも横浜国際高校で毎年「アジアスポーツフェスタ」というインドシナ難民の国内定住者支援のスポーツ大会を主催するなどの社会貢献活動も行っています。そんな白井さんに現役時代を振り返っていただきました。

■ミュンヘンで銀

全日本に選ばれたのが18歳の時からで、ミュンヘン五輪に行く前に引退すると決めていたんですけど、当時の小島監督に「辞めるのはいつでも辞められるんじゃないか、オリンピック終わってからでもいいんじゃない」と言われて「オリンピックに連れて行ってもらえるんなら」ということで引退を延ばしてオリンピックに行きました。
今だからわかるんですけど、ミュンヘンに連れて行ってもらえたのは4年後のオリンピックを見据えていたんでしょうね。
私は「やったオリンピックに行ける」としか思っていなくて、自分が戦うという気持ちはなかったですね。
それにその時は次のオリンピックのことなんて考えていなくて、自分の子供のころからの夢だったオリンピックで金メダル、試合に出なくても先輩方ががんばってくれればという短絡的で他力本願な考えしかなかったですね。
背が高いというだけで連れて行ってもらっていましたから、当時まだ成長過程で体力も無く練習についていけなくて、一番年下だから精神的にもつらくて、毎朝起きたら辞めようと思っていましたね(笑)。

■五輪後一度引退、そして現役復帰

オリンピック後に引退したんですけど、いや〜もう逃げられなかったですね。その時は自分はなんでこういう道を歩まなければいけないんだと思ったけど、今思うとありがたいですよね。みんなが私がバレーをやるために 、いろんなことをやってくれたわけですよ。だけどどっぷり中に入っていると「余計なお世話だ」「もうやめてくれ〜」としか思えませんでした。

なんで日立を選んだかというと「練習量が少なくて強い」ということを聞いて「それは行くしかない!」と。今までは練習量が多くて弱かったので。でもいざ入ってみるとそんなことはないですよね。勝てないときは練習しない。勝ってるときに練習するんだということですごい練習しましたね。1日だいたい8時間から10時間練習なので朝日も夕日も見ない生活でした。朝5時30分のランニングから始まってそのまま5時6時まで体育館で練習してました。

■モントリオールオリンピック

ミュンヘンの時は負けるはずがないと思っていたのに銀メダル。1974年の世界選手権は勝てるはずがないチームで金メダル。モントリオールだけ勝てると思っていたチームで金メダル。当然周囲からのプレッシャーはありましたが練習で乗り越えてきました。それとミュンヘンの負けた時の悔しい経験が生かされたんだと思います。

当時は決勝といえば日ソ戦でした。モントリオール時のソ連は過渡期で、日本は若手主体で当時24歳の私が年長者でした。人間何でも経験ですよ。練習は大嫌いだったけど勝つためには練習しかないなというのは日立に入って経験して若いときは「なんでこんなに練習するんだろ」と思ったけど練習が無駄じゃなかったんですね。それはやれば勝てるという経験があったからそう思いましたけど、やっても勝てなかったらそうは思わなかったと思います。それはそういう時代だったし監督にも恵まれましたね。

私は監督の話を「そんなの無理だよ」と言って否定から入るんですけど、山田監督は納得しなきゃいけないような持っていき方をするんですよ。ちゃんと一人一人に合った話し方をする。12人いたら12人分の話し方を持っているんです。それで必ずライバルを作って競わせる。一番いい例はセッターの松田と金坂はいいライバルでしたね。金坂で世界選手権で金を取ってますし、松田でモントリオールで金を取ってます。監督の使い方も絶妙でした。

■エースの宿命

アタッカーはいいトスが上がらないと打てませんけど、「いいトスは他の子に回していいよ」「悪いトスは私に上げてくれていいよ、何とかするから」と言っていました。エースっていいトスが上がってくることないんですよ。悪いトスをどうやって決めるかということが宿命ですからね。エースって信頼を得るのに時間がかかるんですよね。責任感というものでもないんですけど。責任というのは作られていくも のですよ。

人って組織によって作られていくものなのと一緒で、社長になればその器になっていくし、キャプテンになったらキャプテンらしくなっていく。その組織の中で自分の立ち位置を把握さ えしとけば人の邪魔もしなくて済むし。モントリオールでは私たち一人一人それができるチームだったから勝てたのだと思いますね。自分のやらなきゃいけない事は分かっていたし、監督からの指示にも応えていました。人が期待していることに応えられれば大丈夫だと。

自分は決めなきゃいけないエースとしてどうするかといったら、“相手のいないところを狙って打つ”ことに専念しましたね。どんなことをしてでも決めなきゃいけないんですよ。カッコ悪くたって決まれば1点は1点。カッコ良く決めようなんて一度も思ったことはないですね。“とにかく勝つこと1点取ること”それしかなかったですね。

みなさん私のことをエリートだと言っていますが、決してそんなことはなくてバレーボールは中学2年の夏から始めたし高校は途中で辞めてるし、倉紡もオリンピックの後辞めてるし。周りから負けたことがないんじゃないかと思われてるけど、それまで勝ったことがなかったから勝利への執念というかそういうものがありましたね。初めから勝つことに慣れていたらここまで頑張れていなかったんじゃないかなと思います。

日立に入ってからは勝ち続ける喜びを感じましたね。それまで負け続けて悔しさが私の底辺にあるんでしょうね。私は人にないものがあるとしたら体が大きい割に負けず嫌い。どっちかっていうと体の小さい人の方が負けず嫌いの人が多いんですが、その当時この身長で負けず嫌いだったのでここまでやれたと思いますね。

■バレーボール・モントリオール会

定住型難民の人たちにもスポーツをということで毎年横浜国際高校で「アジアスポーツフェスタ」を開催しています。モントリオール会を結成して最初の事業がネパールのブータン難民支援バレーボール教室そこにいったら世の中こんなことになっているなんてと思いました。

難民になってしまったのって理不尽じゃないですか。自分が悪いことをしたわけじゃなくて政治によって自分たちがそこに住みたいと思っても住めないし、戻れる保証もないわけですし。でも私が一番感動したのは、そんな子供たちに将来何になりたいか聞いたら「困った人たちを助けたいし、そういう仕事をしたい」と言ったんですよ。自分たちが難民で困っているけど、困っていることがわかるわけじゃないですか。福祉みたいな仕事がしたいと聞いた時には感動しましたね。心を打たれました。

恵まれた環境にいるからいい人間になれるとか恵まれていないからダメだじゃなく、自分がどうしたいかですよ。誰かどうにかしてという他力本願ではなく自分で変えていかなきゃいけないんですよ。“やってもらって当たり前”じゃなくて“人に何かやってあげられる人”を一人でも多く育てていくのが教育かなと思っています。それをスポーツでね。

団体スポーツというのは人のためにやるわけじゃないですか。特にバレーは。一本目は二人目の為に。二本目は三人目の為にがんばっていくわけでしょ。それは小さな集団の中でですが、家庭から学校、社会と枠が大きくなっても生かされる部分ですから団体スポーツというのはそういったことを教えられるのでいいですよね。

今年のアジアスポーツフェスタは10月28日に開催します。今年テニス佐藤直子さんが来てくださるそうで、外でテニス、体育館でバレーをするというプログラムになっています。

いつだったかサツマイモを持っていったら参加者の皆さんはそれを一番喜んでいましたね。何よりも。その他協賛品のパンとか持っていきましたがそれも喜んでくれて。とにかく食べ の協賛品は大歓迎ですので、皆さんにご協力いただけると大変ありがたいですね。

プロフィール

白井貴子(しらい たかこ、現姓:高木)

1952年生まれ。岡山県岡山市出身。身長180cm。
1968年 片山女子高校を中退後、倉紡倉敷に入社。
1972年 ミュンヘン五輪決勝でソ連に敗れ銀メダル。現役を引退。
白井貴子さん1973年 現役に復帰し、日立に入社。
1974年 世界選手権決勝でソ連を下し、優勝。
1976年 モントリオール五輪決勝でソ連を下し、金メダル。現役を引退。
1977年 現役復帰し、W杯決勝でキューバを下し、優勝。
1978年 現役を引退。
2000年 日本人女性で初めてバレーボール殿堂入りを果す。
現在はNPO法人バレーボール・モントリオール会 代表理事
杉並区済美教育センター 体力向上担当

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バレーボールと横浜 I n t e r v i e w モントリオール五輪金メダリスト白井貴子さん インタビュー

アジアスポーツフェスタで参加者をリードする白井貴子さん
アジアスポーツフェスタで参加者を
リードする白井貴子さん

モントリオール五輪で金メダルを獲得した白井貴子さんは引退後、当時のメンバーや取材記者とともにバレーボール・モントリオール会を結成し、子どもの体力向上やバレーボールの普及に活動されています。横浜でも横浜国際高校で毎年「アジアスポーツフェスタ」というインドシナ難民の国内定住者支援のスポーツ大会を主催するなどの社会貢献活動も行っています。そんな白井さんに現役時代を振り返っていただきました。

■ミュンヘンで銀

全日本に選ばれたのが18歳の時からで、ミュンヘン五輪に行く前に引退すると決めていたんですけど、当時の小島監督に「辞めるのはいつでも辞められるんじゃないか、オリンピック終わってからでもいいんじゃない」と言われて「オリンピックに連れて行ってもらえるんなら」ということで引退を延ばしてオリンピックに行きました。
今だからわかるんですけど、ミュンヘンに連れて行ってもらえたのは4年後のオリンピックを見据えていたんでしょうね。
私は「やったオリンピックに行ける」としか思っていなくて、自分が戦うという気持ちはなかったですね。
それにその時は次のオリンピックのことなんて考えていなくて、自分の子供のころからの夢だったオリンピックで金メダル、試合に出なくても先輩方ががんばってくれればという短絡的で他力本願な考えしかなかったですね。
背が高いというだけで連れて行ってもらっていましたから、当時まだ成長過程で体力も無く練習についていけなくて、一番年下だから精神的にもつらくて、毎朝起きたら辞めようと思っていましたね(笑)。

■五輪後一度引退、そして現役復帰

オリンピック後に引退したんですけど、いや〜もう逃げられなかったですね。その時は自分はなんでこういう道を歩まなければいけないんだと思ったけど、今思うとありがたいですよね。みんなが私がバレーをやるために 、いろんなことをやってくれたわけですよ。だけどどっぷり中に入っていると「余計なお世話だ」「もうやめてくれ〜」としか思えませんでした。

なんで日立を選んだかというと「練習量が少なくて強い」ということを聞いて「それは行くしかない!」と。今までは練習量が多くて弱かったので。でもいざ入ってみるとそんなことはないですよね。勝てないときは練習しない。勝ってるときに練習するんだということですごい練習しましたね。1日だいたい8時間から10時間練習なので朝日も夕日も見ない生活でした。朝5時30分のランニングから始まってそのまま5時6時まで体育館で練習してました。

■モントリオールオリンピック

ミュンヘンの時は負けるはずがないと思っていたのに銀メダル。1974年の世界選手権は勝てるはずがないチームで金メダル。モントリオールだけ勝てると思っていたチームで金メダル。当然周囲からのプレッシャーはありましたが練習で乗り越えてきました。それとミュンヘンの負けた時の悔しい経験が生かされたんだと思います。

当時は決勝といえば日ソ戦でした。モントリオール時のソ連は過渡期で、日本は若手主体で当時24歳の私が年長者でした。人間何でも経験ですよ。練習は大嫌いだったけど勝つためには練習しかないなというのは日立に入って経験して若いときは「なんでこんなに練習するんだろ」と思ったけど練習が無駄じゃなかったんですね。それはやれば勝てるという経験があったからそう思いましたけど、やっても勝てなかったらそうは思わなかったと思います。それはそういう時代だったし監督にも恵まれましたね。

私は監督の話を「そんなの無理だよ」と言って否定から入るんですけど、山田監督は納得しなきゃいけないような持っていき方をするんですよ。ちゃんと一人一人に合った話し方をする。12人いたら12人分の話し方を持っているんです。それで必ずライバルを作って競わせる。一番いい例はセッターの松田と金坂はいいライバルでしたね。金坂で世界選手権で金を取ってますし、松田でモントリオールで金を取ってます。監督の使い方も絶妙でした。

■エースの宿命

アタッカーはいいトスが上がらないと打てませんけど、「いいトスは他の子に回していいよ」「悪いトスは私に上げてくれていいよ、何とかするから」と言っていました。エースっていいトスが上がってくることないんですよ。悪いトスをどうやって決めるかということが宿命ですからね。エースって信頼を得るのに時間がかかるんですよね。責任感というものでもないんですけど。責任というのは作られていくも のですよ。

人って組織によって作られていくものなのと一緒で、社長になればその器になっていくし、キャプテンになったらキャプテンらしくなっていく。その組織の中で自分の立ち位置を把握さ えしとけば人の邪魔もしなくて済むし。モントリオールでは私たち一人一人それができるチームだったから勝てたのだと思いますね。自分のやらなきゃいけない事は分かっていたし、監督からの指示にも応えていました。人が期待していることに応えられれば大丈夫だと。

自分は決めなきゃいけないエースとしてどうするかといったら、“相手のいないところを狙って打つ”ことに専念しましたね。どんなことをしてでも決めなきゃいけないんですよ。カッコ悪くたって決まれば1点は1点。カッコ良く決めようなんて一度も思ったことはないですね。“とにかく勝つこと1点取ること”それしかなかったですね。

みなさん私のことをエリートだと言っていますが、決してそんなことはなくてバレーボールは中学2年の夏から始めたし高校は途中で辞めてるし、倉紡もオリンピックの後辞めてるし。周りから負けたことがないんじゃないかと思われてるけど、それまで勝ったことがなかったから勝利への執念というかそういうものがありましたね。初めから勝つことに慣れていたらここまで頑張れていなかったんじゃないかなと思います。

日立に入ってからは勝ち続ける喜びを感じましたね。それまで負け続けて悔しさが私の底辺にあるんでしょうね。私は人にないものがあるとしたら体が大きい割に負けず嫌い。どっちかっていうと体の小さい人の方が負けず嫌いの人が多いんですが、その当時この身長で負けず嫌いだったのでここまでやれたと思いますね。

■バレーボール・モントリオール会

定住型難民の人たちにもスポーツをということで毎年横浜国際高校で「アジアスポーツフェスタ」を開催しています。モントリオール会を結成して最初の事業がネパールのブータン難民支援バレーボール教室そこにいったら世の中こんなことになっているなんてと思いました。

難民になってしまったのって理不尽じゃないですか。自分が悪いことをしたわけじゃなくて政治によって自分たちがそこに住みたいと思っても住めないし、戻れる保証もないわけですし。でも私が一番感動したのは、そんな子供たちに将来何になりたいか聞いたら「困った人たちを助けたいし、そういう仕事をしたい」と言ったんですよ。自分たちが難民で困っているけど、困っていることがわかるわけじゃないですか。福祉みたいな仕事がしたいと聞いた時には感動しましたね。心を打たれました。

恵まれた環境にいるからいい人間になれるとか恵まれていないからダメだじゃなく、自分がどうしたいかですよ。誰かどうにかしてという他力本願ではなく自分で変えていかなきゃいけないんですよ。“やってもらって当たり前”じゃなくて“人に何かやってあげられる人”を一人でも多く育てていくのが教育かなと思っています。それをスポーツでね。

団体スポーツというのは人のためにやるわけじゃないですか。特にバレーは。一本目は二人目の為に。二本目は三人目の為にがんばっていくわけでしょ。それは小さな集団の中でですが、家庭から学校、社会と枠が大きくなっても生かされる部分ですから団体スポーツというのはそういったことを教えられるのでいいですよね。

今年のアジアスポーツフェスタは10月28日に開催します。今年テニス佐藤直子さんが来てくださるそうで、外でテニス、体育館でバレーをするというプログラムになっています。

いつだったかサツマイモを持っていったら参加者の皆さんはそれを一番喜んでいましたね。何よりも。その他協賛品のパンとか持っていきましたがそれも喜んでくれて。とにかく食べ の協賛品は大歓迎ですので、皆さんにご協力いただけると大変ありがたいですね。

プロフィール

白井貴子(しらい たかこ、現姓:高木)

1952年生まれ。岡山県岡山市出身。身長180cm。
1968年 片山女子高校を中退後、倉紡倉敷に入社。
1972年 ミュンヘン五輪決勝でソ連に敗れ銀メダル。現役を引退。
白井貴子さん1973年 現役に復帰し、日立に入社。
1974年 世界選手権決勝でソ連を下し、優勝。
1976年 モントリオール五輪決勝でソ連を下し、金メダル。現役を引退。
1977年 現役復帰し、W杯決勝でキューバを下し、優勝。
1978年 現役を引退。
2000年 日本人女性で初めてバレーボール殿堂入りを果す。
現在はNPO法人バレーボール・モントリオール会 代表理事
杉並区済美教育センター 体力向上担当

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