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SPORTSよこはまVol.18

ハマのスポーツ史を知ろう! 横浜スポーツの父 平沼 亮三

 

文化勲章を受章した平沼亮三氏
文化勲章を受章した平沼亮三氏

皆さんは「平沼亮三」というお名前を聞いたことがありますか? 横浜のスポーツの歴史において、同氏を抜きにして語ることはできません。同氏は国会議員や横浜市長などの要職を歴任するかたわら、ここ横浜を中心に相撲や体操、野球などをはじめとするスポーツ界全般の発展に多大なる功績を残しました。昭和7年ロサンゼルス、昭和11年ベルリンの両オリンピックでは日本の選手団長を務めたほか、昭和30年にはスポーツによる文化勲章の初の受賞者となりました。一生涯をスポーツの振興に捧げた「市民スポーツの父」としての勇姿は、今なお色あせることなく、多くの方々から尊敬の念を抱かれています。


凛々しい姿を昭和天皇が歌に!

神奈川国体で氏自ら炬火リレーの最終ランナーとして会場を走りました。
神奈川国体で氏自ら
炬火リレーの最終ランナーとして
会場を走りました。

  慶應義塾大学在学中は野球で活躍した同氏は、後に東京六大学野球連盟会長に就任。また、全日本体操連盟会長や、日本陸上競技連盟(日本陸連)会長、横浜体育協会(現(財)横浜市体育協会)会長など、数々の要職に就かれ、現代のスポーツ振興の礎を築かれました。
  そして、その集大成ともいうべき出来事が、昭和30年秋に横浜をメイン会場として開催された第10回国民体育大会神奈川県大会においてありました。

昭和天皇が平沼亮三氏に贈った歌
昭和天皇が平沼亮三氏に
贈った歌

  三ツ沢競技場に天皇、皇后両陛下をお迎えして開会式が行われた折に、事前の予告もなく同氏が炬火リレーの最終走者として会場を一周し、76歳という年齢を感じさせない走りで炬火台を駆け上がり点火したのです。戦後の復興に国全体が頑張っていた最中のこの出来事は、国民に勇気と希望、感動を与え、観客は総立ちとなりました。

  両陛下も拍手を惜しまれず、翌年の新年歌会で、同氏のこの時の勇姿を歌にされました。
  「松の火をかざして走る老人のおおしき姿みまもりにけり」
  陛下が人を指して歌を詠まれることは極めてまれなことで、同氏が二人目であったと言われています。


横浜市民にとっての「スポーツの父」!

  無類のスポーツ好きであった同氏は、ここ横浜の地で、そして日本で、誰もがスポーツのできる社会を築こうと、スポーツ界、政財界を通して尽力されました。
  また、自宅に土俵やテニスコート、鉄棒などを整備したほか、バドミントンや遊戯道具などを取りそろえ、スポーツ愛好家には性別年代を問わず自宅の施設を開放して、食事や宿泊などの世話をするほどでした。
  こうした「いつでもスポーツができる」環境づくりの先駆者であった同氏は、「市民スポーツの父」として、現在もなお多くのスポーツ人や市民の方々から親しまれています。

いつでもスポーツのできる体育館を造りたい!

平沼記念体育館は今も多くの市民に愛されています。
平沼記念体育館は今も多くの市民に愛されています。

  同氏は「スポーツを通じて、市民の協調と団結意識を高めよう」と体育、特にアマチュアスポーツの振興に力を入れ、市民の誰もがいつでもスポーツのできる体育館の建設を力説されましたが、惜しくも昭和34年2月13日に志半ばにして79歳の生涯を閉じました。
  しかし、同氏の遺志を受け継いだ体育館の建設に向けて、市民と行政が一丸となって動き始め、昭和45年11月に三ツ沢総合競技場の1施設として落成。その名称こそ、同氏の数々の功績の顕彰を表現するべく「横浜市平沼記念体育館」となったのです。
  同体育館は、40年近くたった今なお、多くの市民の方々に利用され、同氏の思いがまさに具現化されているスポーツ施設となっています。

 

平沼記念体育館地図問合せ先 平沼記念体育館
故平沼亮三氏が生前、内外のアマチュアスポーツ界に貢献された業績を示す貴重な資料を多数保存展示しています。
TEL. 045-311-6186 http://www.yspc.or.jp/hiratai_ysa/

 

 

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ハマのスポーツ史を知ろう! 横浜スポーツの父 平沼 亮三

 

文化勲章を受章した平沼亮三氏
文化勲章を受章した平沼亮三氏

皆さんは「平沼亮三」というお名前を聞いたことがありますか? 横浜のスポーツの歴史において、同氏を抜きにして語ることはできません。同氏は国会議員や横浜市長などの要職を歴任するかたわら、ここ横浜を中心に相撲や体操、野球などをはじめとするスポーツ界全般の発展に多大なる功績を残しました。昭和7年ロサンゼルス、昭和11年ベルリンの両オリンピックでは日本の選手団長を務めたほか、昭和30年にはスポーツによる文化勲章の初の受賞者となりました。一生涯をスポーツの振興に捧げた「市民スポーツの父」としての勇姿は、今なお色あせることなく、多くの方々から尊敬の念を抱かれています。


凛々しい姿を昭和天皇が歌に!

神奈川国体で氏自ら炬火リレーの最終ランナーとして会場を走りました。
神奈川国体で氏自ら
炬火リレーの最終ランナーとして
会場を走りました。

  慶應義塾大学在学中は野球で活躍した同氏は、後に東京六大学野球連盟会長に就任。また、全日本体操連盟会長や、日本陸上競技連盟(日本陸連)会長、横浜体育協会(現(財)横浜市体育協会)会長など、数々の要職に就かれ、現代のスポーツ振興の礎を築かれました。
  そして、その集大成ともいうべき出来事が、昭和30年秋に横浜をメイン会場として開催された第10回国民体育大会神奈川県大会においてありました。

昭和天皇が平沼亮三氏に贈った歌
昭和天皇が平沼亮三氏に
贈った歌

  三ツ沢競技場に天皇、皇后両陛下をお迎えして開会式が行われた折に、事前の予告もなく同氏が炬火リレーの最終走者として会場を一周し、76歳という年齢を感じさせない走りで炬火台を駆け上がり点火したのです。戦後の復興に国全体が頑張っていた最中のこの出来事は、国民に勇気と希望、感動を与え、観客は総立ちとなりました。

  両陛下も拍手を惜しまれず、翌年の新年歌会で、同氏のこの時の勇姿を歌にされました。
  「松の火をかざして走る老人のおおしき姿みまもりにけり」
  陛下が人を指して歌を詠まれることは極めてまれなことで、同氏が二人目であったと言われています。


横浜市民にとっての「スポーツの父」!

  無類のスポーツ好きであった同氏は、ここ横浜の地で、そして日本で、誰もがスポーツのできる社会を築こうと、スポーツ界、政財界を通して尽力されました。
  また、自宅に土俵やテニスコート、鉄棒などを整備したほか、バドミントンや遊戯道具などを取りそろえ、スポーツ愛好家には性別年代を問わず自宅の施設を開放して、食事や宿泊などの世話をするほどでした。
  こうした「いつでもスポーツができる」環境づくりの先駆者であった同氏は、「市民スポーツの父」として、現在もなお多くのスポーツ人や市民の方々から親しまれています。

いつでもスポーツのできる体育館を造りたい!

平沼記念体育館は今も多くの市民に愛されています。
平沼記念体育館は今も多くの市民に愛されています。

  同氏は「スポーツを通じて、市民の協調と団結意識を高めよう」と体育、特にアマチュアスポーツの振興に力を入れ、市民の誰もがいつでもスポーツのできる体育館の建設を力説されましたが、惜しくも昭和34年2月13日に志半ばにして79歳の生涯を閉じました。
  しかし、同氏の遺志を受け継いだ体育館の建設に向けて、市民と行政が一丸となって動き始め、昭和45年11月に三ツ沢総合競技場の1施設として落成。その名称こそ、同氏の数々の功績の顕彰を表現するべく「横浜市平沼記念体育館」となったのです。
  同体育館は、40年近くたった今なお、多くの市民の方々に利用され、同氏の思いがまさに具現化されているスポーツ施設となっています。

 

平沼記念体育館地図問合せ先 平沼記念体育館
故平沼亮三氏が生前、内外のアマチュアスポーツ界に貢献された業績を示す貴重な資料を多数保存展示しています。
TEL. 045-311-6186 http://www.yspc.or.jp/hiratai_ysa/

 

 

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