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    イベントレポート

北京オリンピック競泳日本代表・種田恵選手インタビュー 〜水泳と共に歩む道〜

by :千葉 陽子

 8月15日、中国の北京国家水泳センター。北京オリンピック競泳女子200m平泳ぎ決勝に臨む、種田恵選手(神奈川大学4年、JSS長岡)の姿があった。5日前の100m平泳ぎ予選は準決勝に進むことができなかった。得意の200mで、期するものがあったかもしれない。そして8位入賞という結果を残した。もちろんその結果を評価してくれる人はたくさんいる。しかし、「オリンピックという重圧に耐えられなかった。自分で期待してしまい、それが自分を苦しめてしまいました」。悔しさが残った。

 「もう水泳を辞めたい」。北京から帰国後、そんな気持ちに襲われた。1ヵ月半以上泳がない日々が続いた。10月の半ばを過ぎて、久しぶりにプールに入った。ほんの少しのブランクでも体が動かなくなっている自分に驚く。「練習がすごく大事なのだと分かりました」。やはり生粋のスイマーなのだろう。水に包まれて、再び水泳と向き合う前向きな気持ちを取り戻した。

 少女時代は決して速く泳ぐ方ではなかったという種田選手。さまざまな経験を経て、トップスイマーへの階段を昇っていく姿を追った。

勝つ喜びを知った時、つらかった練習が楽しくなった

 生まれてはじめて水泳に出会ったのは、北海道札幌市で暮らしていた2歳の頃。母親に連れられて参加したベビースイミングだった。やがて小学4年生の時に出場した大会で、平泳ぎで全国大会のタイムを切ったことがきっかけに、競技として本格的に水泳を始めることになる。水泳一筋と思いきや、「小学生の時はコーチが怖くてあまり練習に行きたくなくて…。中学1年生になって、水泳を辞めたくて陸上部に入りました」。しかし半年後、「陸上に向いていないことに気付き」、再び水泳に戻ることに。

 水泳選手として花開いたのは、高校時代。幼い時から静岡県、埼玉県と転校が続いたが、高校生になり再び札幌へ。「関東圏では順位が下の方でも、北海道に行った瞬間に1番になれた。つらかった練習も結果が出ると楽しくなりました」。勝つ喜びを知った時期に、縁あって横浜市の神奈川大学へ入学が決定する。

竹村コーチとの出会い、そして生まれた日本新記録

 大学での水泳生活は、4年生で迎える北京オリンピックという目標に向かう道。2005年7月、大学1年生の時モントリオール世界選手権で初めて日本代表に選ばれ、女子200m平泳ぎ4位になる。その大会で、後の競技人生に大きな影響を受ける人物と出会った。

 その人は当時日本代表コーチだった竹村吉昭さん。「こうやりなさい、と束縛されるのが苦手。これが必要かな、と自分から考えないと伸びない」。自身の持つ練習の考えと、竹村コーチの指導法がぴったりと重なる。しかし竹村コーチの所属クラブは、横浜から遠く離れた新潟県長岡市。「他の人にはない練習方法」という、長岡からのメール指導が始まった。プールサイドにコーチはいない。あるのは、メールで送られてくる練習メニュー。「甘えがなかった。ただ練習をこなすだけでなく、自分でよく考えて練習できたので、いろんなことが身につきました」。努力は実り、2007年9月の日本学生選手権で優勝、2分23秒85のタイムで日本記録を7年5ヵ月ぶりに更新する快挙を成し遂げた。

北京へ向けて苦しかった時、大学の存在をすごく大事に思えた

 いよいよオリンピックの代表選考会を意識する時期に入り、2007年10月、単身長岡の竹村コーチの下で練習に専念する決意を固める。しかしそれはつらい日々の始まりでもあった。「長岡では友だちもいないし、練習も一人。オリンピックに出れるのか自信もないし、すごく苦しかった」。人一倍寂しがりやの性格。竹村コーチに内緒でこっそり横浜に帰ってきたことも、幾度となくあった。「交通費がすごかったですね(笑)。大学では水泳部の部員たちとたわいのない話をしたり、その時間がすごく必要だったのだとわかりました」。朝の練習は5時20分から始まるという、ハードなスケジュール。孤独な環境で不安な気持ちと戦いながら、厳しい練習をこなした。

 その日々があったから。迎えた2008年4月の日本選手権。女子100m、200m平泳ぎの2種目でオリンピック派遣標準記録を突破して優勝。念願の北京オリンピック出場を決め、喜びの涙を流した。

いいことも悪いことも、いろんなことをオリンピックで学んだ

 そしてオリンピックを終えて…最初は「すごいね、頑張ったね」と言葉を掛けられることに、素直に答えられなかった。「ベストも出せなかったし、思い通りにいかなかった。もう泳ぎたくないという感情が出すぎて、これからのことを冷静に考えられませんでした」。

 しかし今、思う。後悔だけではなく、確かに得たものがある。「周りの人にすごく応援してもらえることが幸せだった。雑誌やテレビで取り上げていただき、私が知らない方々も応援してくださったことがわかりました。その経験は人生であまり無いことだと思えたのです」。

 4年後のロンドンオリンピックを期待する声も多い。「まだ泳ぎ始めたばかりなので、4年後を目指しているのかと聞かれたら、わからない。それでも今年はやる!と決めたので、冬を乗り越えて、来年4月の世界選手権の選考会に向けて一生懸命頑張りたい。そして来年になってロンドンを目指す気持ちになれたら、それが一番理想だと思います」。何かが吹っ切れたような、明るい笑顔がまぶしい。

 「こうしてプールがあって、メニューがあって、練習ができる。普通に与えられている環境に感謝すべきなのだと思いました」。オリンピックを経て、スイマーとして、ひとりの女性として、一回り大きく成長した。来年3月には神奈川大学を卒業、今度は社会人という立場で水泳と向き合うことになる。どんな輝きを放っていくのだろうか。水泳と共に歩む道は、これからも続く。

【取材エピソード】

 種田選手の素顔を少しだけ披露!マスコミでは「美人スイマー」でおなじみ、透き通るような白い肌はうらやましい限りだが、本人は「白すぎて、イヤ(笑)。無いものねだりで小麦色の肌に憧れます」とぜいたくな発言。「今は休憩中」という趣味のネールアートは、「プールで練習中に、つい癖で爪を見ちゃいます。可愛いなーと思ったりして、嬉しくなります」と癒しの効果もあるそうだ。

 そして種田選手はコブクロの大ファン。ここは記者と同じ趣味で大いに盛り上がった。「私はロック調の激しい曲が苦手で、疲れちゃうんですよ。コブクロは歌詞もすごく好き。ゆったりしているし、リラックスできます」。敢えてお気に入りの曲を尋ねたら…「蒼く 優しく」、また「DOOR」が挙がった。確かにアスリートらしい選曲と納得!

 「集中して頑張れない性格」という種田選手。それでも、「水泳だけは夢中になれた。悔しくて泣いたり、嬉しすぎて涙があふれたり、こんなに熱くなれるのは水泳をやってきたからだと思う」。大人になるにつれ、情熱を持って生きることは難しい。だから種田選手にはこれからも水泳と共に人生を歩んでほしい。誰もが出会うことはできない、かけがえのないものと出会えたのだから。

取材協力・神奈川大学

※写真の転載は固くお断りします