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横浜スポーツ史
[2009年6月10日Up]
Vol.12 キャプテンわんが歩いてたどる! 横浜開港150周年歴史の道

ついに横浜開港150周年!
皆さんお祝いムードを満喫しているかな?
今回の僕の旅は、今までとは一味違うんだ!
それはね…150年前に思いをはせながら、現在の横浜を歩いてみたんだよ。
僕が歩いたのは、神奈川宿から横浜道、そして開港場へと続く道だよ!

キャプテンわん    出発は反町公園

出発は神奈川区の反町公園。どんな出会いが待っているのか、ワクワクしながらスタート!



最初の目的地・慶運寺は、「うらしま寺」とも呼ばれているんだ。
その名の通り、浦島太郎のおとぎ話にそっくりの伝説があるんだよ。
むかーし昔、三浦半島で暮らしていた浦島太夫の息子・太郎は、浜辺でいじめられていた亀を助けたお礼に、竜宮城へ連れて行ってもらうことになった。
そこで姫と暮らすようになった太郎だが、両親が心配になり帰ることになったんだ。
姫に玉手箱をもらって、戻った太郎を待っていたのは両親の死…。
太郎の両親の墓があった観福寿寺は、後に火事で焼失して慶運寺と合併されたんだ。

浦島伝説が伝わる慶運寺  浦島父子塔

慶運寺に今も伝わる、横浜の浦島伝説。境内には浦島父子塔が残っているよ【右】 慶運寺はフランス領事館が置かれたことでも知られている



次に向かったのは成仏寺。
このお寺にゆかりの深い人物といえば…ヘボン博士だよ!
アメリカ人宣教師で医者だったヘボン博士は、安政6年(1859)横浜開港と同時に来日した。
そのヘボン博士が日本で最初に住んだお寺が、成仏寺だった。

成仏寺  成仏寺の涙石

成仏寺の境内にある「涙石」【右】 石のくぼみは、竜宮城から帰ってきた浦島太郎が両親の死を知って流した、大粒の涙の跡だと伝えられているよ



その後宗興寺に移り住んだヘボン博士は、文久元年(1861)4月頃から、無料の施療所を開設したんだ。
文久2年(1862)8月21日に起こった生麦事件では、近くの本覚寺(当時のアメリカ領事館)に保護されたけが人を、この施療所で治療したと言われているよ。

宗興寺  ヘボン博士施療所の記念碑  

宗興寺にはヘボン博士施療所の記念碑があるよ【右】 施療所は5ヵ月で閉鎖されてしまったが、その後ヘボン塾(現・明治学院大学)を創設。ヘボン博士が幕末の横浜で残した功績は大きい

神奈川の大井戸  本覚寺    

宗興寺のすぐ横にある神奈川の大井戸。江戸時代初期には徳川将軍のお茶の水として使われていた。井戸の水量が増えると翌日は晴れると言われ、「お天気井戸」と呼ばれていたよ【左】 開港後、アメリカ領事館が置かれた本覚寺。日本初の西洋塗装法(ペンキ)の建築物でもあるんだ【右】



ここで「田中家」という、歴史ある料亭を発見!
文久3年(1863)創業の「田中家」は、神奈川宿の時代から残っている、唯一のお店。
あの坂本竜馬の妻・おりょうが明治8年(1875)頃、仲居で働いていたエピソードもあるよ!

田中家  神奈川台の関門跡  

竜馬の死後、日本各地を転々としたおりょうは、神奈川にたどり着いた。田中家で出会った西村松兵衛と再婚し、横須賀で生活するようになった【左】 外国人の殺傷事件が続き、各国の領事館の非難を受けた幕府は安政6年(1859)、関門や番所を作って警備体制を強化した。神奈川宿の西側の関門の跡だよ【右】

  

神奈川宿を抜け、横浜道へ突入!
開港前、東海道から横浜への交通はとても不便だったので、幕府は3ヵ月間の急ピッチで新道を開いたんだ。
この横浜道を進み、掃部山(かもんやま)公園に到着。
お花見の名所でも有名な掃部山公園には、彦根藩主大老・井伊直弼(いいなおすけ)の像が建っているよ。
安政5年(1858)、「安政の大獄」を行った井伊直弼は、その2年後「桜田門外の変」で暗殺された。
これは歴史上の大きな事件だね。

井伊直弼の銅像 横浜道の道標 

掃部山公園の名は、井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼と名乗っていたことに由来するよ。明治42年、旧彦根藩士によって銅像が建てられた【左】 現在も残る横浜道の道標。皆さんも歩く時は足元に注目してみてね!【右】



ちょっとブレイク!

キャプテンわんのお弁当

たくさん歩いたから、お腹が空いたよ~



さあ、ここから歩く道は、開港の歴史の足跡が色濃く残っているよ!
桜木町駅そばの高架下に、鉄道建設の碑を発見!
明治3年(1870)、日本政府はイギリスから鉄道技師のモレルを招いて、横浜(現在の桜木町)から新橋間の鉄道建設に踏み切ったんだ。
明治5年(1872)9月、明治天皇が出席して開通式が行われ、日本鉄道は夜明けを迎えた。

鉄道創業当時の横浜駅のレリーフ  鉄道建設の碑

当時の途中停車駅は神奈川、鶴見、川崎、品川で所要時間は53分。新橋までの運賃は上等(一等)が1円12銭5厘。現在に換算すると、片道約13,500円!庶民が気軽に乗ることはできない時代だったんだ



馬車道に到着!
この付近では開港後、居留地の外国人を保護するために、吉田橋のたもとに関所を設け、武士や町人の出入りを取り締まった。
関所の内側(馬車道側)は関内、外側(伊勢佐木町側)は関外と呼ばれていたよ。
「関内」の駅名はここに由来しているんだよ!

馬車道  ガス灯記念碑 

慶応2年(1866)の「豚屋火事」で、遊郭街だった港崎町(現在の横浜公園付近)をはじめ、関内地区の大半が焼失した。その復興事業で作られた道のひとつが馬車道。外国人が馬車で往来していたため、この名がついた【左】 明治5年(1872)、日本ではじめてのガス灯が馬車道、本町通りにかけて灯された。関内ホール前に、そのレリーフがあるよ【右】

県立歴史博物館 横浜市開港記念会館

国の重要文化財・県立歴史博物館。明治37年(1904)設立時は、横浜正金銀行だった。戦後、県が譲り受けてから博物館に生まれ変わったよ【左】 横浜開港50周年を記念して、市民の寄付金で大正6年(1917)に創建された横浜市開港記念会館。シンボルの時計塔は「ジャック」の愛称で親しまれているよ!【右】



旅のゴールは開港広場。
安政元年(1854)、開国を求めてアメリカからやって来たペリー提督と幕府が、日米和親条約(神奈川条約)を結んだ場所だよ。
この条約によって下田と箱館(現・函館)が開港、まさに日本が新しい時代を迎えた入り口になったんだ。
5年後の日米修好通商条約を経て、安政6年(1859)6月2日、ついに横浜は開港した!

皆さんも歴史の浪漫を感じながら、横浜を歩いてみてね!

開港広場  みなとみらいを臨むキャプテンわん

日本開国の舞台になった開港広場【左】 50年後、そして100年後…横浜にどんな未来が待っているかな?


取材協力・横浜ウォーキング協会 http://ywa.sunnyday.jp/


かもめの「ちょっと教えて!横浜今昔物語」

 

“横浜発祥”のものと言えばいろいろありますが、馬車道周辺にはその記念碑がたくさんありますよ!例えば…近代街路樹の発祥を記念した碑。アイスクリームがはじめて製造されたことを記念した「太陽の母子像」。日本初のプロカメラマン・下岡蓮杖の顕彰碑など。散策しながら探してみましょう!ちなみに神奈川県庁(通称・キング)、横浜税関(通称・クィーン)、横浜市開港記念会館(通称・ジャック)を巡ると願いが叶うと言われていますよ。
カモメ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      

 

     

 

     

 

     

 

     

 

     

 

     

 

   

 

 




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