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横浜スポーツ史
[2008年8月17日Up]
Vol.4 かつての海は青かった! ~ 横浜の海水浴場の歴史を訪ねて

毎日とっても暑いね! 夏本番、皆さん楽しんでますか!
夏といえば…やっぱり海水浴だよね!
僕は泳ぐことが大好き!
えっ?犬かきしかできないんじゃないかって?
とんでもない!僕はバタフライや平泳ぎもばっちり泳げるのさ!
さて、いったい人々はいつから海水浴に行くようになったんだろう?
その答えを求めてタイムスリップしてみよう!!

キャプテンわん
むかーし昔、海に入ることは、「湯治」のように海水につかったりあがったりすることを繰り返して、病気の治療や予防の目的となっていたんだ。
やがて明治時代に入る前に、外国人が横浜にレジャーとしての海水浴をもたらした。
今の金沢区あたりになる富岡は、当時リゾート地域としてにぎわっていたそうだよ。
明治13(1880)年に「海宝楼」、そして4年後の明治17(1884)年には「金波楼」という旅亭が開店したんだ。
海岸を見に行ってみよう!
日本人や外国人の大人から子どもまで、大勢の人たちが海水浴を楽しみに訪れたそうだよ!
みんな気持ちよさそうだったなあ。
本牧海岸の風景
本牧海岸の風景「当時の絵葉書」 (「横浜スポーツ百年の歩み」より)

明治23(1890)年になると佐藤五郎吉さんという人が、横浜港に近い山下に簡単な休憩所、衣類預かり場のある海水浴場を作ったよ。
皆さんおなじみの“海の家”に似ているね!
本牧海岸の風景
山下の海水浴場(明治後期)「横浜市図書館蔵」 (「横浜スポーツ百年の歩み」より)
でもこの時代はまだまだ取り締まりが厳しくて、海水浴場内では男性と女性は区別されていたんだ。
さらに明治32(1899)年7月になると、日本人の裸は外国人にとって見苦しいといわれ、沖合いでは遊泳禁止になってしまった。
そこで当時の市民たちは陸から船で渡った沖合いに、人工の遊泳施設を作ったんだ。
この施設があったのは吉岡水泳場(高島町沖合い)や忠泳館水泳場(野毛沖合い)で、船で渡って行くんだよ。連日大入り満員で大人気だったよ!
忠泳館では極東大会に出場したことがある鵜飼弥三郎さんをはじめ、古代泳法の達人たちが遊泳の指導をしてくれたよ。
明治40年代の夏には磯子や屏風ヶ浦に海水浴場ができて、さらに明治43(1910)年、神奈川の子安の海水浴場がオープン。その開場式では、なんと花火が打ち上げられたんだ!
磯子海水浴場での潮干狩
磯子海水浴場での潮干狩「横浜貿易新報」明治45年6月28日 (「横浜スポーツ百年の歩み」より)
本牧海岸の風景
磯子海水浴場での水泳指導「横浜貿易新報」明治45年7月13日 (「横浜スポーツ百年の歩み」より)


昔の人たちは制限された環境の中で、さまざまな工夫を凝らして海水浴を楽しんでいたんだね!
今年の夏、皆さんも海で楽しい思い出を作ってほしいな。
それでは夏バテしないように頑張ろうね!



 

かもめの「ちょっと教えて!横浜今昔物語」

明治時代の海水浴場を訪ねたキャプテンわん、海で子どもたちと楽しそうに遊んでいましたね!
明治以前から昭和の初期、横浜の子どもたちはまき割りや水汲み、子守りなどの家業労働が与えられていました。そんな忙しいさなか、子どもたちは手伝い仕事の合間に工夫してよく遊んでいたようです。今の子どもたちにもおなじみの折り紙やあやとりは、明治時代にすでに始まっていたそうです。鬼ごっこやかくれんぼも人気があったようです。特に女の子に人気があったのは、「通りゃんせ」や「茶摘み」など歌を伴った遊びでした。
心が豊かになりそうな遊びばかりですね!ゲームに夢中になっている最近の子どもたちに、タイムスリップして経験させてあげたいですね!
カモメ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      

     

     

     

     

     

     

   
 




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