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えのきどいちろうの横浜スポーツウォッチング

vol.55「コケコッコーと山猿音頭」

 

 

 読者は「定期戦」(もしくは「対抗戦」)の文化をご存知だろうか。たぶん現在のスポーツファンは、総当たりのリーグ戦やオープン参加のトーナメントの様式に慣れている。僕の印象ではこれはアメリカ的だ。民主的で機会均等を重んじる発想だ。一方、「対抗戦」はイギリスのイメージがある。ダービーマッチ。名門どうしの伝統の一戦。決してオープンな性格ではない。エリート校が名誉をかけて争うものだ。

 

 例えば関東大学ラグビーには「対抗戦」グループと「リーグ戦」グループが存在する。「対抗戦」グループは早慶明や帝京等が所属し「リーグ戦」グループは法政中央日大、関東学院等が顔を揃える。で、実際にやってることはどちらも総当たりのリーグ戦で違いがわからない。だけど、出自に違いがあるのだ。「対抗戦」グループはそもそも一校vs一校で個々に行なわれていた定期戦をまとめたものだ。ダービーマッチの集合体だ。

 

 我が国における定期戦の歴史は戦前までさかのぼる。かつて「扇港の早慶戦」と称された旧制神戸一中(神戸高校)vs神戸二中(兵庫高校)の対抗戦は毎年、春秋に武道と球技、夏に水泳の定期戦が行われた。こうした伝統は戦後の新制高校にも受け継がれる。関東で名高いのは例えば群馬県の「高崎高校vs前橋高校」、茨城県の「下妻一高vs水海道一高」の定期戦だ。これは現在も続いている。県を横断して争われた「湘南・浦和定期交歓戦」は2002年に姿を消している。

 

 さて、横浜市にもかつて忘れ難い定期戦があった。それをご紹介するのが本稿の趣旨だ。「横浜翠嵐高校vs横浜平沼高校」。三ッ沢グラウンド行きのバスに乗る感覚で言うと、山坂の上にあるのが翠嵐、下に所在するのが平沼だ。ともに名高い県立高校。呼び名は翠嵐側から言うと「翠平戦」、平沼側から言うと「平翠戦」だった。これがユニークな定期戦なのだ。旧制中学っぽい「ナンバースクールの定期戦」とはニュアンスが違う。どちらかといえば「戦後民主主義」や「学園」のイメージがある。

 

 というのは「県下の名門校が雌雄を決する」という軸とは異なる出発点だったからだと思う。発端は火事だった。戦後間もない1949年、翠嵐高校の校舎が焼失、最短距離にあった平沼高校に間借りすることになる。元は男子校の翠嵐と女子校の平沼だ。これを縁に七夕にちなんで「一年に一度、両校の間にある三ッ沢グラウンドで会いましょう」と親睦目的のスポーツ交流戦が始まった。第1回は1954年、7月8日だった。だから、そもそも「雌雄を決する」といった時代がかった物言いに適さないのだ。「雌雄」ならそもそも生徒の男女比からして違う。七夕の逢瀬なんてちょっとロマンチックじゃないか。

 

 「平沼は女子が多かったから、うちの男子は嬉しかったんじゃないかな。競技が全部終わると、後夜祭でキャンプファイヤー焚いてフォークダンスやるんですよ。他校の女子の手が握れるんですよ。私たち女子はそういう意味ではあんまり盛り上がらなかった。でも、他校の生徒と一緒に実行委員やるのは貴重な経験でしたね」(1980年翠嵐高校卒、梅田比奈子さん)

 

 フォークダンスはドキドキだ。何か青春っぽい雰囲気だなぁ。やっぱり、七夕の逢瀬をイメージしてる以上、「定期戦」「対抗戦」もバンカラなものじゃなくなってくるのか。

 

 「いや、僕は応援団でそんな艶っぽい話とは無縁でした。ぜんぜんそんな、モテるわけないですよ。応援は両校ともに力が入ってました。ある意味で競技そのものより力が入ってました。平沼はコケコッコー、翠嵐は山猿音頭なんです。名物応援です。何でそういう風な応援になったのかはわかりません。そうなってたんです。僕らはコケコッコーですよ。それを歌って踊るんです」(1974年平沼高校卒、小野力さん)

 

 いや、応援スタイルは十分、バンカラだったようだ。言ってみれば平沼の鶏、翠嵐の山猿はスクールマスコットだ。例えばオレゴン州立大学がビーバーズを名乗るようなことだ。三ツ沢グラウンドには平沼のビッグバード、翠嵐の山猿のハリボテが例年出現した。写真を確認したが3、4メートルは優にありそうな巨大なものだ。よくそんなものを学校で作って三ツ沢まで運んだ。特に平沼は坂道を上るから大変だったに違いない。

 

 競技はトラックを使った陸上競技に始まり、午後にはバスケットボール、ソフトボール、バレーボール、サッカー等、球技に移った。大詰めは玉入れや綱引き等、団体競技だったようだ。全競技が終了すると閉会式で得点が発表され、優勝旗授与である。後夜祭は前述した通り、フォークダンスでドキドキだ。

 

 「生徒の自主性に任せて、教員は大らかに見守ってましたね。当時、実行委員やなんかは学校に寝泊まりしてましたよ。今だったら無理でしょうね。1960年からは詩や随筆、俳句短歌の『文芸の翠平戦』も行われたんです。それから職員の翠平戦もやってたようです」(1974年翠嵐高校卒/現翠嵐高校教諭、青木健さん)

 

 通算成績は翠嵐の13勝12敗。最後の優勝は翠嵐であったが、なぜか優勝旗は平沼高校の「歴史資料展示室」に保管されている。生徒の自主性に任された横浜の「定期戦」は、生徒の熱が冷め、練習不足や参加者減が表面化して、中止されるに至った。

 

 それでも輝きは色褪せない。かつてむやみやたらと翠嵐、平沼の二校が燃えた時代があったのだ。いい時代だ。それを記しておきたい。

 

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えのきどいちろう プロフィール

コラムニスト

1959年8月13日生まれ
中央大学在学中にコラムニストとしての活動を開始。以来、多くの著書を発表。ラジオ・テレビでも活躍。

Book
「サッカー茶柱観測所」「F党宣言!俺たちの北海道日本ハムファイターズ」ほか

Magazine/Newspaper
「がんばれファイターズ」(北海道新聞)/「新潟レッツゴー!」(新潟日報)ほか

Radio/TV
「くにまるジャパン」(文化放送)/「土曜ワイドラジオTOKYO」(TBSラジオ)ほか

Web
アルビレックス新潟オフィシャルホームページ
「アルビレックス散歩道」

Web
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「えのきどいちろうのファイターズチャンネル」

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