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えのきどいちろうの横浜スポーツウォッチング

vol.50「スカイブルーのY校」

 

 

 梅雨明け前の7月13日、「Y校」を見に俣野公園・横浜薬大スタジアム(略称ハマヤク)へ出かけた。戸塚駅からバスで坂を上って行く。車窓から見る横浜薬科大学の施設が非常に立派で、どーんと天に伸びてる塔は何だろうと思ったら、旧・横浜ドリームランドに併設されていたかつての「ホテルエンパイア」(地下2階、地上21階)なのだった。現在は大学の図書館棟として使用されているらしい。更に行くと今度は野球場と団地群が見えてきた。

 

 第97回全国高等学校野球選手権・神奈川大会。カードは1回戦の横浜商業vs南高校。地元の呼び方をすれば「Y校」と「南高」(なんこう)。期せずして横浜市立校どうしの激突だった。球場に到着したらもうゲームが始まっていた。「午後から雨」の予報を受けて、11時プレーボールを15分前倒しにしたのだ。というわけで僕は球場の歓声のなかへ遅れて入っていく。僕はこれが好きなのだ。大概は「前の試合」の歓声なんだけどね、球場の外でワーワーと盛り上がってるのを聞いて、ちょっとドキドキしながらスタンドに入っていく。

 

 内野席に陣取ったら「Y校」のブルーのユニホームが目に飛び込んで来た。あぁ、「Y校」だぁと思う。胸に染みる深いブルー。帽子と胸のYマーク。ストッキングの2本ライン。学生時代に憧れた「Y校」だ。ジャンボ宮城が来ていたユニホームだ。いや、だけど今の選手はちっちゃいなぁ。僕のイメージは身長193センチの宮城弘明投手で出来上がってるから比較にはならないか。そんな巨漢、滅多にいないから「ジャンボ」って愛称がついたわけで。

 

 ちょっと、彼方に去った70年代を思ってしばらくジーンと来たのだ。1979年夏、2年生エース、ジャンボ宮城の「Y校」は甲子園ベスト4まで進み、石井毅(のちに西武)嶋田宗彦(のちに阪神)がバッテリーを組む箕島に敗れた。敗れはしたがそのカラーユニホームが本当にカッコ良かったのだ。高校野球は地味な単色ユニホームが主流の世界で、僕にはブルーが画期的に思えた。大げさに言うと大リーグっぽくさえ感じられた。ジャンボ宮城の規格外のサイズにまたよく似合ったのだ。ちなみに彼は80年のドラフトでヤクルトに3位指名されることになるスター選手だ。

 

 つまり、僕は「Y校」の「Y校」たる由縁を知らずに応援していたことになる。なぜ「Y校」だけが特権的にYOKOHAMAの「Y」を身に着けることができるのか。それは一つには商業学校として数々の人材を輩出し、ミナト横浜の実業発展に寄与してきた歴史である。何しろ校歌の作詞が文豪・森鴎外だ。「事業(ことわざ)こそは種々(しなじな)かはれ」「誠を守る商人(あきびと)我等」スケール感がハンパない。

 

 また球史をひもとくと1896年(明治29年)、YC&ACと旧制一高(のちの東大)の対抗戦の折、学校関係者が応援に借りだされ、一高野球部員からボールとバットを寄贈されたのを創部由来としている。明治創部の野球部は日本に数えるほどしかない。もちろん関東における高等中学校野球・高校野球のけん引役となった。甲子園出場は大正から始まる。昭和期には後に台頭してきた横浜高校との「YY決戦」でハマの人気を二分した。

 

 ところが20世紀の終わりから高校野球は私立の時代に突入するのだ。セレクションで全国から素材を集め、豪華な練習施設を整えて徹底強化をはかる。この流れに公立校は置いて行かれる。また大学進学率が上がって、「商業高校」に以前ほど生徒が集まらなくなった。かつて都市の花形は「商業高校」だったのだ。それが様変わりして、女子生徒が増えていき、次第に進学コース等を併設するようになる。「Y校」は次第に「甲子園常連校」の座を横浜高校や東海大相模に明け渡してしまう。

 

 試合は初回から両校に得点が入るダイナミックな展開だった。「Y校」は小刻みに追加点を加え、3対1とリードする。投手起用の面では「Y校」は継投策を用いた。先発の小林大晟君は1回で交代し、今は軟投左腕の小川穣一郎君が「南高」打線をうまく抑えている。ナックルカーブだろうか、沈む球が効果的だ。「Y校」は新設されたスポーツマネジメント科の生徒が3学年揃った最初の夏である。中学野球の名監督として知られた榎屋剛監督を迎えての4年目。部員数も総勢127名の大所帯だ。古豪復活へ向けて準備は着々と整ってきた。何よりハマヤクのスタンドを埋めたOB、高校野球ファンの視線が熱い。ちょっとびっくりするくらいの入りだ。「Y校」は人気あるなぁ。

 

 スタンドにいるとOBのつぶやきがよく聞こえた。これは「伝統校あるある」なのだが、スタンドのOBが黙って見てられないのだ。「これ練習してないな、練習でやれないことは本番で絶対できないから」「想定してやってないんでしょ」「意味がわかってやってるかだね」。なかなか手厳しい。愛する「Y校」に何とか復活してもらいたい。見てるといてもたってもいられない。

 

 好投していた小川君が5回裏、ランナーを置いた場面で1塁送球を暴投してしまった。そのときのため息、悲鳴。試合は3対3の振りだしに戻った。そこから6、7、8回と両校ゼロ行進。7回からエースナンバーの梅津善仁君が登板した。僕は「南高」野球部がかなり強いことにも感心していた。「南高」側から考えればついに「Y校」のエースを引っ張りだしたのだ。

 

 9回表、決勝打を放ったのは3番打者、大通広志主将だった。この選手はサード守備の動きを見てもちょっと別格だった。小柄だが大変センスがいい。「南高」バッテリーもずっと警戒していた。決勝打は走者を置いてライトオーバーのタイムリーだ。9回裏を抑え切って、「Y校」4対3の見事な勝利! 僕は本当に久しぶりに「Y校」の校歌を聞いた。

 

 帰りのバス車内でもOB氏たちの「反省会」は続いていた。「最後のショートゴロ、危なっかしかったな」「何で待って捕るんだろうね、逆シングルで」 細かいところを丹念に見ている。僕はね、「形状記憶合金」ならぬ「形状記憶古豪」というのを思いついた。強豪古豪はいったんチームが弱体化しても必ず元の形に戻ろうとする。代が変わり指導者が変わっても何故か復元力がある。「形状記憶古豪」、あり得ない話じゃないでしょう。何でかっていったら「本来の形」を人が覚えているからだ。OB氏やファンの熱気を見てそんなことを考えた。

 

【縮小版】20160713コラムPHOTO

 

 

追記、その後、「Y校」こと横浜商業高校は4回戦まで駒を進めるも、残念ながら2対3のスコアで平塚学園に惜敗した。が、見る者の胸を揺さぶる好ゲームだった。OB、ファンは「Y校」復活の手応えを感じたのじゃないか。

えのきどいちろう プロフィール

コラムニスト

1959年8月13日生まれ
中央大学在学中にコラムニストとしての活動を開始。以来、多くの著書を発表。ラジオ・テレビでも活躍。

Book
「サッカー茶柱観測所」「F党宣言!俺たちの北海道日本ハムファイターズ」ほか

Magazine/Newspaper
「がんばれファイターズ」(北海道新聞)/「新潟レッツゴー!」(新潟日報)ほか

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「くにまるジャパン」(文化放送)/「土曜ワイドラジオTOKYO」(TBSラジオ)ほか

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