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えのきどいちろうの横浜スポーツウォッチング

vol.20「東都のエース」

今月は単行本の執筆に追われて取材に出る時間が取れない。で、田村政雄について書いておきたいという気になった。若い読者は「東都のエース 田村政雄」をご存知ないだろう。大洋ホエールズの1975年ドラフト1位。ただし、大洋はまだ川崎球場を本拠地にしていた。アンダースローの好投手だ。中央大では通算39勝を挙げている。大学選手権でノーヒットノーランを達成して話題になった。

だから「東都のエース」は鳴り物入りでホエールズに入団したのだ。自他ともに認める新人王候補だった。カーブ、シュート等、多彩な変化球を持つ実戦派だ。当時、ホエールズの監督は秋山登であり、サイド、アンダーの変則投法の連想も手伝ってファンは「秋山2世」を期待したのだ。

僕は田村投手に特別な関心を寄せていた。というのは第一に少年時代、野球を覚えた土地が父の転勤で4年間住んだ和歌山市だったことだ。田村政雄は県立和歌山商業の出身で、親近感があった。第二に田村投手がプロ入りした時点で、僕が中大杉並高校の生徒だったことだ。中央大の附属高校生にとって「田村政雄」はビッグネームだった。

たぶん多くの読者に「田村政雄」は存在するのだと思う。例えばプロ入りした選手と実家が近いとか、中学や高校が同じだったとか、そういう親近感から自己を投影するような気持ちで応援した選手。まぁ、応援といっても球場に日参してタイコを叩いていたわけじゃないから、実際は「遠くで想っていた」程度のことだ。が、本気で活躍を願っていた。平松政次に続くエースは決まりだと興奮していた。

あれはどういうものなんだろう。今でも覚えているのは中大杉並のクラスに新聞の小さな切り抜きを持っていって、同級生に見せたりしたことだ。切り抜きは4、5センチ角くらいのベタ記事が多くて、東都大学リーグでの田村投手の大活躍を報じたものだった。まだフジテレビの『プロ野球ニュース』は始まっていなくて、ぼんくら高校生はそんなベタ記事から空想をふくらませていたのだ。よくあんなことができたというか、続けていたものだ。最後は確か、母校が最下位になって入れ替え戦で登板した記事だったと思う。

同級生に「県和商」についてレクチャーもしたはずだ。和歌山市には県立和歌山商業と市立和歌山商業の2つがあって、それぞれ「県和商」「市和商」と呼ばれていた。野球の強豪校だ。和歌山は人口当たりのプロ野球選手輩出率(?)が日本一という土地で、70年代なら箕島高校の黄金時代というイメージだが、実際には強豪校がひしめいていた。僕が野球を教わったコーチ(町内のお米屋さんの兄ちゃんだ)は市和商出身で甲子園に出た人だった。それからよく練習を見に行って、すごいなぁ、上手いなぁと感激していた星林高校(小久保裕紀の母校!)は、紀三井寺球場の甲子園予選ではあっさり負けてしまって大ショックだった。

僕も高校生になってたから、いかにぼんくらだろうと自分の「少年時代」に始末をつけなくちゃいけないのはわかっていた。無限に成長するような日々は終わった。ぼんくらを演じてぼんやりしていれば何となく厳しい現実に直面しないでよさそうに思えるが、そんなのは錯覚だった。小学生の低学年ならともかく、5年生には自分がプロ野球選手にならないと知っていた。ただプロ野球のことを考えてみるのは甘い時間だった。僕らは後ろ髪をひかれるように「田村政雄」を想った。

どうして田村投手がプロで大成しなかったのか、今も不思議なのだ。彼が(彼ほどの大器が)プロで困難に出くわしたことは、ぼんくら高校生に「厳しい現実」の脅威を想像させるに充分だった。田村投手は76年シーズンからの3年間、大洋に在籍し、79年、南海に移籍、81年にユニホームを脱いでいる。実働5年の通算成績は135試合登板、9勝16敗4セーブ、3完投、1完封、169奪三振、防御率6.10。

引退後は実家の酒屋さんを継いだと風のウワサに聞いた。そのエピソードがまた、僕が野球を教わった米屋の兄ちゃんを連想させて、親しみを感じたものだ。「田村政雄」の名前は今世紀になって、意外な形で報じられることになる。阪神から2002年、ドラフト8巡目で指名された田村領平投手のお父さんとしてだ。田村領平投手は「市和商」出身だった。あれは嬉しかったなぁ。

「厳しい現実」はきっと色んな風に存在するのだろう。僕らスポーツファンは素晴らしい素材が実績を残せず、ユニホームを脱ぐのを何度も見てきた。いや、それはスポーツに限らないことだ。学生時代の友達が皆、平凡な人生を送っている。あんなに優秀なやつが、あんなにいいやつが、あんなに楽しいやつが「厳しい現実」の前に無力に思えたりする。

だけどね、「田村政雄」「田村領平」の親子鷹はめげなかったんだよ。野球に人生を懸けた。二代にわたってチャレンジしてみせた。勇気が湧いてくるね。僕は大人になってよかったなぁと感じるのは、こういう時間軸で物事を見渡せることだ。

誰が忘れても僕は「田村政雄」を忘れないつもりだ。残念なことに「東都のエース」はホエールズのエースにはならなかった。でも、それが何だろうか。田村投手は憧れのスターだ。僕の記憶の中で永遠に、地を這うような流麗なアンダースローを投じる。

えのきどいちろう プロフィール

コラムニスト

1959年8月13日生まれ
中央大学在学中にコラムニストとしての活動を開始。以来、多くの著書を発表。ラジオ・テレビでも活躍。

Book
「サッカー茶柱観測所」「F党宣言!俺たちの北海道日本ハムファイターズ」ほか

Magazine/Newspaper
「がんばれファイターズ」(北海道新聞)/「新潟レッツゴー!」(新潟日報)ほか

Radio/TV
「くにまるジャパン」(文化放送)/「土曜ワイドラジオTOKYO」(TBSラジオ)ほか

Web
アルビレックス新潟オフィシャルホームページ
「アルビレックス散歩道」

Web
ベースボールチャンネル
「えのきどいちろうのファイターズチャンネル」

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